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もう晩夏だというのに、蒸し暑くまとわりつくような暑さはなかなか去らない。
朝倉澪は帰宅すると、浴槽に自分で調合したローズマリーとスイートオレンジの精油を数滴垂らした――化粧品会社で商品選定を担当している彼女の、ちょっとした職業病のような習慣だ。
湯気とともに爽やかな柑橘の香りが広がり、彼女は深く息を吸って、張りつめていた肩の力を少しだけ抜いた。
「結婚式まであと三か月かぁ……」
澪は頬を両手で包んだ。
ドレスは婚約者の黒川直哉と一緒に選んだ。
「よく似合ってるよ」
まるで芸能人のような顔立ちの直哉にふわりとほほえまれて、頬が熱くなったのを思い出した。
本当にあの直哉と結婚するのだ。
「はあ……」
澪は胸に手を当てて、至福の吐息を漏らした。
結婚式に想いを馳せているとき、スマホが震えた。画面を確認すると、まさに直哉からだった。
澪はうれしさを隠そうともせず、電話に出た。
「直哉? こんな時間にどうしたの?」
『澪……。今から会えるか?』
妙に真剣な声色の直哉に、澪の体がこわばった。
「今から?」
時計を見ると、もうすぐ九時になろうという時間だった。
『ああ。どうしても会って話したいことがある』
「どうしても」。その言葉が澪の胸に引っかかった。しかも、直接会って話をしなければいけないこととはなんだろうか。
しばらく考えてみたが、胸がざわつく。今まで直哉は澪をこんな時間に呼び出したことなどない。
「わかった。どこに行けばいい?」
直哉は澪のマンション近くのカフェを指定した。そこだったら帰りも遅くならない。
澪は出かける準備をして、カフェに向かった。
カフェに到着すると、奥の席に直哉が座っていた。こちらに向けて手を挙げたので、澪も小さく手を振る。
席に近づくと、直哉の隣に見覚えのある女性が座っていた。
「え? 花音?」
直哉の隣には、高校時代からの親友・藤崎花音がいた。いや、「座っていた」というより、直哉にしなだれかかり、腕を絡ませていた。もう一方の手は、そっとお腹を守るように添えられている。
目の前の光景が幻ではないかと思いたくなるほどだった。
呆然とその場で立ちすくんでいる澪に、直哉は声をかけた。
「座ったら?」
「あ……うん」
澪は直哉と花音の向かいに座った。直哉と花音は、どこからどう見ても恋人同士のようにしか見えない。澪は膝の上でスカートをぎゅっと握りしめた。
するとすぐに直哉が口を開いた。
「澪、婚約を解消してほしい」
「……え?」
頭の中で、言葉の意味が処理できなかった。
婚約、解消……。嘘でしょ?
なにかの間違いではないかと直哉の顔を見るが、決して冗談を言っているようには見えなかった。
「な……んで」
なんとか絞り出した声は掠れていた。スカートを握りしめている手のひらに汗がにじむ。
「こいつ、俺の子を妊娠してるんだよ。だからこいつと結婚する」
直哉の言葉に、花音は直哉に向かってほほえんだ。そして澪を横目で見ると、ニヤッと口角を上げて口元を緩めた。
妊娠――。その単語だけが、やけに遠くで響いた。耳の奥がきぃんと鳴って、店内のざわめきが急に水の中みたいにくぐもる。目の前がぐらりと揺れた。
「会場も招待客もそのまま使う。花音が『お腹が目立ってからウェディングドレスを着るのは嫌だ』と言うから、結婚式は一週間後にする予定だ。結婚式場に無理言ってなんとか日程調整できたよ。なんてったって、結婚式の繁忙期だからな」
まるで自分の日程調整能力を自慢するかのようだった。澪は喉が締め付けられたように、うまく息ができない。
「さすが直哉さん」
花音はふふふと笑って、直哉の腕にしがみつく。
「あ、澪の親族は申し訳ないけど参加できないからな。当たり前だけど」
澪の幸せが一瞬にして音を立てて崩れ落ちた。
澪は、かつて自分だけに優しく微笑みかけてくれたその人の顔を見つめた。けれど今、その視線も、その優しい声も、すべては別の女性――自分が誰よりも信じていた親友へと向けられていた。
「ごめんね、澪」
花音ははらはらと涙を流した。
「ほら、泣くなよ」
直哉が花音にハンカチを渡した。花音はぐずぐずと鼻を啜りながら涙を拭いた。そして澪をまっすぐ見つめた。
「でも、ぜんぶ澪のせいだからね!」
「な……」
「だって、澪は仕事ばっかりで直哉さんのことほったらかしだったでしょう?」
「そ……れは」
確かに仕事は好きだ。けれど、結婚したあとにしばらく休むから、できるだけ前倒しで仕事をこなしていただけだ。それなのに、そんなふうに思われていたとは考えもしなかった。
「それにさ、澪は負けず嫌いで、やさしくないし、思いやりも足りないって直哉さんが……」
「おい、そこまで言ってねえぞ」
「言ったじゃん! 『花音ちゃんはやさしいね。澪もこうだったらいいのにな』って。あたしに慰めてって言ってきたじゃん!」
そうか。自分はそんなにやさしくなくて思いやりも足りなかったのか。
澪は愕然とした。カフェの喧騒が遠くに聞こえる。
「わ……かりました」
澪はよろよろと立ち上がり、拳を握った。婚約指輪が手のひらに食い込む。
直哉と出会ったのは五年前だった。就職して部屋を探しに行った不動産屋の窓口で担当してくれたのが直哉だった。直哉は澪に一目惚れしたらしく、何度も告白してきた。最後は澪が折れる形で付き合うことになった。
付き合って三年が過ぎたころ、直哉は澪の好きなレストランの個室で指輪を差し出した。「澪となら、いい家庭が築ける気がするんだ」。そう言ってはにかんだ横顔を、澪は今でもはっきり覚えている。あのとき自分は、世界でいちばん幸せな女だと思った。
直哉は澪に対してやさしかった。澪も精一杯の愛情を向けた。それなのに、「やさしくない」と言われるとは思いもしなかった。
花音は高校一年のときに同じクラスになった。妙に話があって、一緒にいるのが楽しかった。けれど花音には、澪の持っているものをほしがる癖があった。澪が新しいピアスをつければ「それかわいい、どこの? あたしもほしい」と同じものを買い、澪が褒められれば決まって唇をとがらせた。かわいいやきもちだと思っていた。まさか、婚約者までほしがるとは思いもしなかったのだ。
澪は頭を抱えて、おぼつかない足取りでカフェを後にした。
どうやってマンションに帰ったのかは覚えていない。自宅マンション近くのカフェだったから、自然と足が向いたのかもしれない。
マンションの扉を閉めると、その音が大きく部屋中に響き渡った。
「け……っこん……できないん……だ」
膝の力が抜けて、玄関のたたきに座り込んだ。けれど不思議と涙は出なかった。
どれぐらいそこに座っていたのだろうか。急に体が冷えて身震いした。
のろのろと立ち上がって、リビングに向かう。壁時計に目を向けると、もう日付が変わりそうな時間になっていた。
こんな時間まで起きているなんて、澪にはないことだ。肌のことを考えると、夜更かしなどできない。
けれど、もう、肌の手入れを念入りにする必要などなくなった。
「どうでもいいや……」
澪はソファに倒れ込んだ。もう、なにも考えたくない。
悲しいはずなのに、涙は出なかった。胸の奥が乾いた砂みたいにざらついているだけだった。
そのとき、バッグの中でスマホが震えた。澪はバッグに手を入れ、スマホを引っ張り出した。画面を確認すると、花音からのメッセージだった。おもむろにメッセージを開いた。
『澪、ごめんね。直哉さんの相談に乗ってたら、そんな雰囲気になって……。でも直哉さんと、素敵な家庭を築くね』
添付されていた画像は妊娠証明書と母子手帳だった。母子手帳には父の欄に「黒川直哉」、母の欄には「藤崎花音」と記載されている。
明らかに、花音が勝ち誇ったようにそれを送付してきたとしか思えない。心の底がしん、と冷え切るのがわかった。
澪はスマホをソファに投げた。
もう、そんなものは見たくもない。直哉との五年間も、花音との十二年間も何もかもが嘘だったように感じてならない。
二度と恋なんてしない。誰も信じない。
信じられるのは自分自身だけだ。
澪は腕で目を覆った。肌の手入れもせずにこのまま寝てしまいたい。
そのとき、再びスマホが震えた。
けれど澪は画面を見る気になれなかった。どうせ花音からだ。まだなにか澪に誇示したいことが残っていたのか。
澪はスマホに背を向けて横になった。
スマホの画面には、登録されていない番号からのメッセージが届いていた。
『ただいま』
澪は提案書をクリアファイルに入れ、バッグにしまった。「澪、それ、いつ上に出すんだ?」 出勤の準備をしている澪に、仁が声をかけた。澪はバッグを肩にかけながら答えた。「できるだけ早いほうがいいと思ってる。だから、今日、上司に相談してみるつもり」「そうか。がんばれ。でも、無理はするなよ」 仁は、澪のほおに右手を添えた。澪は、その手にそっとほおをすり寄せた。 仁の大きな手に包まれるだけで、なぜだか安心する。「いってらっしゃい」 仁が澪の額に、ちゅっ、とキスを落とした。澪は目を細めて、仁を見上げた。「いってきます」 仁にほほえみかけて、玄関を出た。背後でドアが閉まる音がする。 その音が耳に届くと、澪は背筋をぴんと伸ばした。顎を引き、まっすぐ前を向いて、エレベーターホールへ向かった。 会社に着くと、澪は提案書をバッグから出して、デスクに伏せて置いた。 ――大丈夫。あの人なら、きっとわかってくれる。 澪をコラボの担当に抜擢してくれたのは、今の上司だった。上司は、澪の仕事をいつもいちばん近くで評価してくれている。 昨夜、提案書の最後のページに書いた上司の名前を見て、胸がひやりとしたのは、きっと気のせいだ。 始業後、上司のほうに目を向けると、忙しそうにしている様子はなかった。こういうことは、早いほうがいい。澪は提案書を手に、上司のデスクへ向かった。「例の件で、ご相談があるのですが」「わかりました。では、会議室へ行きましょうか」 上司は立ちあがると、小さな会議室へ向かった。澪もそのあとについていった。 会議室に入ると、上司に椅子を勧められた。澪は「失礼します」と小さく言って、腰を下ろした。ぎしっと、椅子がきしむ。天井の蛍光灯が、パチンと音を立てた。「それで? 結論は出たの?」「はい。こちらを、ご確認いただけますか」 澪はクリアファイルから提案書を取りだして、上司の前に差しだした。
ドアをノックしたが、しばらく返事がなかった。けれど、なかに仁がいることはわかっている。 澪はもう一度ノックしようと、拳を握りしめた。その手を上げた瞬間、ドアがそっと開いた。「……仁」「おかえり、澪」 仁の顔は、ひどくやつれていた。目の下には、くまがくっきりと浮かんでいる。ラボで寝泊まりしていても、きちんと眠れてはいなかったのだろう。「ただいま。……おかえり、仁」 たった数日離れていただけなのに、妙に気まずい。目を合わせられずにいると、仁が口を開いた。「リビングで話そうか」 澪は、小さくうなずいた。 ソファに並んで座っても、しばらくはどちらも口を開かなかった。 ――このままじゃ、だめだ。 澪は、仁のほうへ体ごと向きなおった。「この前は、ごめん。言いすぎた」 澪は、仁に頭を下げた。仁がせっかく澪のためを思って提案してくれたことを、澪はすべてはねつけてしまったのだ。仁が怒っても当然だった。 仁は澪の肩に手を添えて、そっと頭を上げさせた。目が合うと、仁は口もとをゆるめた。「いや、俺のほうこそ、ごめん。澪がこれまで必死にがんばってきたことを、全部なかったことにするような言い方になってた」 そう言って、仁は眉を下げた。 ――やっぱり、思ったことは言葉にしないと伝わらないんだ。 仁の顔を見ていると、ほっとして体から力が抜けた。気づかないうちに、ずっと肩がこわばっていたらしい。 力が抜けると、澪はようやくここへ来た目的を思い出した。仁に謝りたかっただけではない。 澪はバッグからクリアファイルを取りだした。なかには、A4の書類が三枚入っている。 澪は書類を抜きだすと、ローテーブルの上に置いた。 それを見て、仁は目を見開いた。「……提案書?」「うん。あたしなりにいろいろ調べて、考えてみたの。読んでみて」
あの日から、仁は家に帰ってこなくなった。 真壁のメールにあったとおり、ラボに簡易ベッドを入れ、そこで寝泊まりしているのだろう。 ひとりきりの部屋で数日を過ごすうちに、澪の頭も少しずつ冷えてきた。 仁は、澪を守ろうとして、仁なりに考えてくれたのだ。そのことは、わかっている。 けれど、仁に用意してもらった道を、ただ歩くのは嫌だった。自分の力で、なんとかしたい。「じゃあ、澪ちゃんは三つめを見つけないとね」 奈央の言葉が、脳裏によみがえった。 そうだ。与えられた道ではなく、自分で道を切りひらきたいのなら、三つめを見つけるしかない。 回答期限は、刻一刻と近づいている。 澪は、ダイニングテーブルの向かいにある仁の席を見つめた。 仁も自分も納得できる方法を、必ず見つけだしてみせる。 澪は唇を引き結んで立ちあがり、ひとりぶんの朝食の後片づけをした。 出勤すると、澪はさっそく調べものを始めた。 今は、さまざまな働き方がある時代だ。もしかしたら、澪と同じように利益相反に悩んだ人がいるかもしれない。 けれど、同じような例は、なかなか見つからなかった。 ――だったら、自分で考えるしかない。 澪はまず、どんな状態が利益相反にあたるのかを、ひとつひとつ確かめていった。 婚約者の会社に有利な条件で契約を結び、自社に損害を与えること。 自社の機密情報を、相手の会社に漏らすこと。 契約金額や条件を不当に調整したり、相手を特別扱いしたりすること。 どれも、気づかないうちにやってしまいそうなことばかりだった。 一緒に暮らしていれば、つい家で会社の愚痴をこぼすこともある。その何気ない一言に、機密情報がまじっていたら――。 それに、どんなに公正な契約を結んでも、「婚約者の会社だから、そういう条件になったんだよね」と言われてしまいそうで、こわい。 ――やっぱり、グロウセオリーを離れるしかないの?
出勤の時間が迫ったころ、ようやく書斎のドアが開いた。「……おはよう」 仁の声は、いつもより格段に低かった。目の下にはくまが浮かび、顔には疲れがにじんでいる。 書斎にはベッドがない。机に突っ伏して寝ていたのだろう。ほおには、寝あとがくっきりとついていた。 ――ちゃんと、休めてないんじゃないの? 心配が、胸をよぎった。けれど、口から出てきたのは、自分でも驚くほど低い声だった。「おはよう」 向かい合って食卓についても、ふたりともひと言も話さなかった。 澪がちらりと仁を見ると、仁はすっと目をそらした。目すら、合わない。 トーストをかじる音と、壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。 ――あたりまえ、だよね。 仁は、澪のことを思って、あの提案をしてくれたのだ。それなのに、その気持ちを無下にするような言い方をしてしまった。 ――今のうちに、謝ろう。 澪は、膝の上でぎゅっと手を握った。「仁、あの――」 そのとき、仁が椅子から立ちあがった。 食べ終えた皿を手に、仁はキッチンへ向かった。蛇口から水の流れる音がして、食器がカチャカチャと鳴った。 その音だけが、やけに大きく耳に響く。 澪は、続きの言葉を飲みこむしかなかった。 水の音が止まった。仁はコーヒーのポットを手に戻ってくると、空になっていた澪のマグカップに、黙ってコーヒーを注いだ。 ミルクは、ほんの少しだけ。澪の好きな量だった。「会社に行ってくる」 仁はそれだけ言うと、澪に背を向けた。 玄関のドアが閉まる音がしても、澪はその場から動けなかった。 両手で包んだマグカップが、じんわりと温かい。 ――なんで、こんなときまでやさしいの。 立ちのぼる湯気の向こうで、視界が少しだけにじんだ。* マンション
仁は、ただまっすぐに澪の顔を見ていた。 冗談を言うときの、口の端だけで笑う顔ではない。その表情は、真剣そのものだった。「この前の人事からの話って、今後の身の振り方のことだったんじゃないのか?」 まさか仁の口から、その言葉が出るとは思ってもみなかった。澪の背筋が、スッと冷えた。「……どうして、そんなこと言うの?」 澪はテーブルの上で手を組んで、親指をもじもじと動かした。仁の目を、まともに見ていられない。 それから、ふきんを手に取り、テーブルに飛び散ったスープをゆっくりと拭った。とっくにきれいになっているのに、手を止められなかった。「どうしてって、最近、澪の様子がおかしかっただろ? 帰ってきても上の空だし、夜もあんまり眠れてないみたいだったから」 仁は、テーブルの上で指を組んだ。「婚約したタイミングで人事から呼ばれたなら、たぶん、利益相反を指摘されたんじゃないかと思ってな」 ――全部、わかってたんだ。 仁は、なんでもお見通しだった。ほんとうなら、澪はほっとしてもいいはずだった。 それなのに、その事実に、澪の心はなぜかひりついた。「そう……なんだけどさ」 歯切れの悪い言葉しか、返せなかった。けれど仁は、そんな澪にはお構いなしに続けた。「澪には、うちの新商品開発の責任者になってもらいたい。手作りコスメの知識を、存分に活かしてほしいんだ」 澪は、うつむいたまま仁の言葉を聞いていた。「給料に責任者手当をつけるし、経営会議にも参加してもらう。これからは、俺と真壁さん、そして澪の三人で、会社を回していきたいと思ってる」 つまり、経営陣として名を連ねるということだろうか。 澪は、ゆっくりと顔を上げた。 仁の目は、どこまでもまっすぐだった。思いつきで言っているのではないことは、すぐにわかった。きっと、ずっと前から考えていたのだろう。 仁は、澪のことを本気で評価してくれている。コラボの仕事でいっしょに走り、澪の実力をすぐそばで見てきたからこそ、この提
会社から示された選択肢は三つで、回答期限は二週間後だった。 デスクのモニターが暗転して、黒い画面に自分の顔が映りこむ。目に光がなく、どんよりとしている。手入れは一日も欠かしていないのに、肌の色つやまでくすんで見えた。 いちばん手っ取り早くて安心なのは、グロウセオリーを退職し、ダーマコードに移ることだろう。仁はきっと、快く迎え入れてくれる。 もしかしたら、グロウセオリーとの窓口を任せてもらえるかもしれない。この会社のことを知りつくしている澪にとっては、仕事もしやすいはずだ。 ふたつめは、コラボの担当を外れてグロウセオリーに残る道だ。その選択肢が用意されているのは、これまでの仕事を評価してもらえているからだろう。ダーマコードとの仕事に関われなくなるだけで、この会社で働きつづけることはできる。 ――でも、それでいいの? 自分で手がけてきた仕事を手放してまで、ここに残る意味はあるのだろうか。 そして、三つめは、会社を辞めるのでも、ただ残るのでもない道を自分で探し、提案することだ。 そんなものがほんとうにあるのか、澪にはさっぱりわからなかった。「もう……どうしたらいいの」 澪は、両手で頭を抱えた。 考えても考えても、答えは出なかった。 とうとう澪は、昼休みに会社の外へ出て、実家の母に電話をかけた。「お母さん? ちょっと、相談があるんだけど……」『どうしたのよ、珍しいわね。なに? 言ってごらん』 澪は、仁との婚約によって利益相反の問題が生じたことと、会社から三つの道を示されたことを、かいつまんで話した。 すると母は、電話の向こうで、あっけらかんと笑った。『なんだ、簡単じゃない。そんなに真剣に考えなくたって、今の会社を辞めて、仁くんの会社に移ればいいでしょ?』「そう……なんだけど」 たしかに、そうだ。会社を辞めて、仁の会社に移る。それがいちばん楽だ。







