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婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません
婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません
مؤلف: 海野雫

第一話 二重の裏切り

مؤلف: 海野雫
last update تاريخ النشر: 2026-07-03 08:48:13

 もう晩夏だというのに、蒸し暑くまとわりつくような暑さはなかなか去らない。

 朝倉澪は帰宅すると、浴槽に自分で調合したローズマリーとスイートオレンジの精油を数滴垂らした――化粧品会社で商品選定を担当している彼女の、ちょっとした職業病のような習慣だ。

 湯気とともに爽やかな柑橘の香りが広がり、彼女は深く息を吸って、張りつめていた肩の力を少しだけ抜いた。

「結婚式まであと三か月かぁ……」

 澪は頬を両手で包んだ。

 ドレスは婚約者の黒川直哉と一緒に選んだ。

「よく似合ってるよ」

 まるで芸能人のような顔立ちの直哉にふわりとほほえまれて、頬が熱くなったのを思い出した。

 本当にあの直哉と結婚するのだ。

「はあ……」

 澪は胸に手を当てて、至福の吐息を漏らした。

 結婚式に想いを馳せているとき、スマホが震えた。画面を確認すると、まさに直哉からだった。

 澪はうれしさを隠そうともせず、電話に出た。

「直哉? こんな時間にどうしたの?」

『澪……。今から会えるか?』

 妙に真剣な声色の直哉に、澪の体がこわばった。

「今から?」

 時計を見ると、もうすぐ九時になろうという時間だった。

『ああ。どうしても会って話したいことがある』

 「どうしても」。その言葉が澪の胸に引っかかった。しかも、直接会って話をしなければいけないこととはなんだろうか。

 しばらく考えてみたが、胸がざわつく。今まで直哉は澪をこんな時間に呼び出したことなどない。

「わかった。どこに行けばいい?」

 直哉は澪のマンション近くのカフェを指定した。そこだったら帰りも遅くならない。

 澪は出かける準備をして、カフェに向かった。

 カフェに到着すると、奥の席に直哉が座っていた。こちらに向けて手を挙げたので、澪も小さく手を振る。

 席に近づくと、直哉の隣に見覚えのある女性が座っていた。

「え? 花音?」

 直哉の隣には、高校時代からの親友・藤崎花音がいた。いや、「座っていた」というより、直哉にしなだれかかり、腕を絡ませていた。もう一方の手は、そっとお腹を守るように添えられている。

 目の前の光景が幻ではないかと思いたくなるほどだった。

 呆然とその場で立ちすくんでいる澪に、直哉は声をかけた。

「座ったら?」

「あ……うん」

 澪は直哉と花音の向かいに座った。直哉と花音は、どこからどう見ても恋人同士のようにしか見えない。澪は膝の上でスカートをぎゅっと握りしめた。

 するとすぐに直哉が口を開いた。

「澪、婚約を解消してほしい」

「……え?」

 頭の中で、言葉の意味が処理できなかった。

 婚約、解消……。嘘でしょ?

 なにかの間違いではないかと直哉の顔を見るが、決して冗談を言っているようには見えなかった。

「な……んで」

 なんとか絞り出した声は掠れていた。スカートを握りしめている手のひらに汗がにじむ。

「こいつ、俺の子を妊娠してるんだよ。だからこいつと結婚する」

 直哉の言葉に、花音は直哉に向かってほほえんだ。そして澪を横目で見ると、ニヤッと口角を上げて口元を緩めた。

 妊娠――。その単語だけが、やけに遠くで響いた。耳の奥がきぃんと鳴って、店内のざわめきが急に水の中みたいにくぐもる。目の前がぐらりと揺れた。

「会場も招待客もそのまま使う。花音が『お腹が目立ってからウェディングドレスを着るのは嫌だ』と言うから、結婚式は一週間後にする予定だ。結婚式場に無理言ってなんとか日程調整できたよ。なんてったって、結婚式の繁忙期だからな」

 まるで自分の日程調整能力を自慢するかのようだった。澪は喉が締め付けられたように、うまく息ができない。

「さすが直哉さん」

 花音はふふふと笑って、直哉の腕にしがみつく。

「あ、澪の親族は申し訳ないけど参加できないからな。当たり前だけど」

 澪の幸せが一瞬にして音を立てて崩れ落ちた。

 澪は、かつて自分だけに優しく微笑みかけてくれたその人の顔を見つめた。けれど今、その視線も、その優しい声も、すべては別の女性――自分が誰よりも信じていた親友へと向けられていた。

「ごめんね、澪」

 花音ははらはらと涙を流した。

「ほら、泣くなよ」

 直哉が花音にハンカチを渡した。花音はぐずぐずと鼻を啜りながら涙を拭いた。そして澪をまっすぐ見つめた。

「でも、ぜんぶ澪のせいだからね!」

「な……」

「だって、澪は仕事ばっかりで直哉さんのことほったらかしだったでしょう?」

「そ……れは」

 確かに仕事は好きだ。けれど、結婚したあとにしばらく休むから、できるだけ前倒しで仕事をこなしていただけだ。それなのに、そんなふうに思われていたとは考えもしなかった。

「それにさ、澪は負けず嫌いで、やさしくないし、思いやりも足りないって直哉さんが……」

「おい、そこまで言ってねえぞ」

「言ったじゃん! 『花音ちゃんはやさしいね。澪もこうだったらいいのにな』って。あたしに慰めてって言ってきたじゃん!」

 そうか。自分はそんなにやさしくなくて思いやりも足りなかったのか。

 澪は愕然とした。カフェの喧騒が遠くに聞こえる。

「わ……かりました」

 澪はよろよろと立ち上がり、拳を握った。婚約指輪が手のひらに食い込む。

 直哉と出会ったのは五年前だった。就職して部屋を探しに行った不動産屋の窓口で担当してくれたのが直哉だった。直哉は澪に一目惚れしたらしく、何度も告白してきた。最後は澪が折れる形で付き合うことになった。

 付き合って三年が過ぎたころ、直哉は澪の好きなレストランの個室で指輪を差し出した。「澪となら、いい家庭が築ける気がするんだ」。そう言ってはにかんだ横顔を、澪は今でもはっきり覚えている。あのとき自分は、世界でいちばん幸せな女だと思った。

 直哉は澪に対してやさしかった。澪も精一杯の愛情を向けた。それなのに、「やさしくない」と言われるとは思いもしなかった。

 花音は高校一年のときに同じクラスになった。妙に話があって、一緒にいるのが楽しかった。けれど花音には、澪の持っているものをほしがる癖があった。澪が新しいピアスをつければ「それかわいい、どこの? あたしもほしい」と同じものを買い、澪が褒められれば決まって唇をとがらせた。かわいいやきもちだと思っていた。まさか、婚約者までほしがるとは思いもしなかったのだ。

 澪は頭を抱えて、おぼつかない足取りでカフェを後にした。

 どうやってマンションに帰ったのかは覚えていない。自宅マンション近くのカフェだったから、自然と足が向いたのかもしれない。

 マンションの扉を閉めると、その音が大きく部屋中に響き渡った。

「け……っこん……できないん……だ」

 膝の力が抜けて、玄関のたたきに座り込んだ。けれど不思議と涙は出なかった。

 どれぐらいそこに座っていたのだろうか。急に体が冷えて身震いした。

 のろのろと立ち上がって、リビングに向かう。壁時計に目を向けると、もう日付が変わりそうな時間になっていた。

 こんな時間まで起きているなんて、澪にはないことだ。肌のことを考えると、夜更かしなどできない。

 けれど、もう、肌の手入れを念入りにする必要などなくなった。

「どうでもいいや……」

 澪はソファに倒れ込んだ。もう、なにも考えたくない。

 悲しいはずなのに、涙は出なかった。胸の奥が乾いた砂みたいにざらついているだけだった。

 そのとき、バッグの中でスマホが震えた。澪はバッグに手を入れ、スマホを引っ張り出した。画面を確認すると、花音からのメッセージだった。おもむろにメッセージを開いた。

『澪、ごめんね。直哉さんの相談に乗ってたら、そんな雰囲気になって……。でも直哉さんと、素敵な家庭を築くね』

 添付されていた画像は妊娠証明書と母子手帳だった。母子手帳には父の欄に「黒川直哉」、母の欄には「藤崎花音」と記載されている。

 明らかに、花音が勝ち誇ったようにそれを送付してきたとしか思えない。心の底がしん、と冷え切るのがわかった。

 澪はスマホをソファに投げた。

 もう、そんなものは見たくもない。直哉との五年間も、花音との十二年間も何もかもが嘘だったように感じてならない。

 二度と恋なんてしない。誰も信じない。

 信じられるのは自分自身だけだ。

 澪は腕で目を覆った。肌の手入れもせずにこのまま寝てしまいたい。

 そのとき、再びスマホが震えた。

 けれど澪は画面を見る気になれなかった。どうせ花音からだ。まだなにか澪に誇示したいことが残っていたのか。

 澪はスマホに背を向けて横になった。

 スマホの画面には、登録されていない番号からのメッセージが届いていた。

『ただいま』

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